中国人名の読み方について

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     日本語において「習近平」は何と読めばいいのだろうか。「しゅうきんぺい」と読む人と、「シージンピン」と読む人がいるだろう。どちらが正しいのか。「シージンピン」と読む人は、それは当然、原語(中国語)に近い読み方(すなわち「シージンピン」)の方が正しいに決まっている、と思うかもしれない。では、「シージンピン」と読んだ人は、「孫文」「毛沢東」「蒋介石」「周恩来」をそれぞれなんと読むのだろうか。「毛沢東」くらいなら、「マオ・ツォートン」と読める人もそれなりにいると思うが、この4人全員の名前を原語(あるいはそれに近い発音)で読める日本人は中国語を学んだ人以外にはめったにいないのではないか。しかも、この4人は中国の近現代史を語る際に不可欠の人名であるにも関わらず。

     そもそも中国語を習ったこともない日本人が、中国人の人名をすべて原語(に近い)読み方で読むなど不可能に近い。それでも原語で読まなければならない理由があるだろうか。

     第1に、中国人自身が中国人名を原語(中国語)で読むことを日本人に要求しているだろうか。していない。第2に、本国(中華人民共和国と台湾)にいる中国人は日本人の名前を日本語読みしているだろうか。していない。というより、するはずがない。なぜなら、中国語には日本語のひらがなやカタカナ、朝鮮語(朝鮮半島の言葉)のハングルのような表音文字が存在しないので、仮に「安倍晋三」を「あべしんぞう」と読むためには、「安倍晋三」の横や後に、「あべしんぞう」と読める別の漢字を(昔の万葉仮名のように)つけ加えなければならないが、そんなことはしていない。もちろん、日本に来て日本語を覚えた(覚えようとしている)中国人が日本人名を日本語読みするのは当然のことで、それは中国在住の日本人が中国人名を中国語読みするのと同じことである。

     以上を踏まえれば、中国(中華人民共和国と台湾)の中国人は日本人名を中国語読みしているのに、日本人は中国人名を中国語読みしなければならない、というのは相互主義に反しているばかりか、中国人自身もそのような要求をしていないのに、日本人が中国人名を中国読みしなければならない理由はないことがわかる。

     

     ではなぜ、日本で中国人名を原語読みするような風習が現れたのだろうか。理由は明らかだろう。朝鮮人の名前を原語読みするという慣習が中国人にも機械的に当てはめられただけである。では、朝鮮人の名前を原語読みするという慣習はいつ頃現れたのだろうか。きちんと調べたわけではないが、私の記憶では1980年代に現れ、90年代以降、徐々に広まってきたように思われる。ではなぜ80年代にそうした慣習が現れたのか。私の記憶では、80年代から90年代にかけて行われた在日コリアンによる指紋押捺拒否運動とともに広まっていった印象がある。つまり、朝鮮人名を原語(朝鮮語)読みせよという要求は、ほかならぬ在日コリアンの権利獲得運動の中から生まれたものである。そして、80年代の指紋押捺拒否運動の前史として、70年代の日立就職差別撤廃運動があった。当時、在日コリアンのほとんどは通名、すなわち日本式の名前を名乗っていた。これは、日本が朝鮮半島を植民地化していた時代に朝鮮人に強要した創氏改名に由来するものであった。1970年、当時20歳の朴鐘碩さんは通名の「新井」で日立製作所の採用試験を受けて合格するが、その後、朴さんが韓国籍であることがわかると日立側は採用を取り消したため、朴さんは解雇撤回を求める裁判を起こしたのだが、この過程で朴さんはそれまでの通名使用をやめ、本名を名乗ることをしたのだった。すなわち、朴さんが通名の「新井」ではなく、本名の「朴鐘碩(パク・ジョンソク)」を名乗ったことは、創氏改名という日本の植民地政策の罪悪を告発し、在日コリアンのありのままの存在を日本社会に認めさせるための闘争でもあったということだ。この朴さんの民族差別反対闘争を受け継ぐ形で行われた指紋押捺拒否運動の中で、日本の植民地政策のいわば延長として続いている日本社会の差別体質を問い質す運動として朝鮮人名の原語読み要求運動は行われたのではなかったか。それが、歴史認識の欠如した日本社会の側では、とにかく漢字の人名は原語読みすればいいのだという短絡的なとらえ方をしたため、機械的に中国人名にも当てはめればいいという考えが生まれたように思われる。

     

     日本人が、漢字圏の外国人名を原語読みするという慣習は、相互性・平等性の要請だと受け止めている人が多いように思うが、それは全くの誤解である。上述したように、中国人との関係においては、原語読み(中国人名なら中国語読み、日本人名なら日本語読み)ではなく、現地語読み(日本では中国人名を日本語読み、中国では日本人名を中国語読み)こそが相互性の要請を満たすものである。一方、朝鮮人名を原語(朝鮮語)読みせよという要請は、韓国や北朝鮮と日本という国家間の関係において出てきたものではなく、在日コリアンの差別撤廃闘争の中から生まれたものである。それは同時に、日本における朝鮮人差別が、日本が戦前・戦中に行った植民地支配の過去を清算していないという歴史認識の欠如と結びついている現実を告発する運動として出てきたものである、という認識こそが重要なのである。朝鮮人・中国人を問わず、単に漢字圏の外国人名は原語読みすればいいだろうという態度は、朝鮮人差別の歴史的根源への理解をかえってあやふやにしてしまう安易な発想だと言わざるを得ないだろう。

     

     


    認知的不協和の理論

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       去年の何月ごろだったかは覚えていないのだが、新聞の論壇時評に紹介されていた海外の論文で、フェイクニュースの多いサイトの愛読者は、フェイクニュースの誤りを暴露するニュースに接すると、これまで以上にそのサイトを熱心に読むようになる、という研究報告があるのを読み、大いに驚いたものだったが、社会心理学の知見によれば、少しも驚くには値しないことだったようである。

       アメリカの心理学者であったレオン・フェスティンガーらは、今から60年以上も前の1956年に『予言がはずれるとき』というカルト集団に関する研究書を発表し、それに基づき翌57年には『認知的不協和の理論』を刊行した。

       『予言がはずれるとき』は、19541221日の夜明け前に大洪水が発生して世界は破滅すると信じるカルト集団にフェスティンガーらが潜入して参与観察したもので、見事に自分たちの信念と矛盾する現実を突きつけられたカルトの信者たちは、驚くべきことに、ごく一部を除いて、そのままカルトにとどまり、以前よりも熱心な信者になったというのである。そこで、この不思議な現象を説明するために提出されたのが「認知的不協和の理論」なのである。すなわち、人は、自分のそれまでの強い信念や行動と矛盾する現実に直面したとき(認知的不協和に直面したとき)、この矛盾を解消するために、それまでの信念や行動を変更する代わりに、それまでの信念や行動に合致するように現実解釈を無理やり操作することがある、というのである。

       ただし、「信念を維持するには組織的な支えが必要である。孤立した信者が、我々が言及したような矛盾した証拠に耐え抜くことはあまりない。お互いに支えあうことができるグループの中で確信している場合には、信念は維持されるものと考えられる。そして、信者たちは、その信念が正しいものとして、組織外の人々を説得し、改宗させようとする」とのことである。

       

       そういわれてみると、確かにこうした現象はわれわれの周囲にありふれていることに気づく。地下鉄サリン事件を引き起こした後のオウム真理教信者についても、同様のことが報じられていた。

       

       そんなことよりも、今こうして毎日毎日連日連夜、安倍政権の犯す犯罪・悪事・その隠蔽・改竄・歪曲・捏造が、これでもかというほど報じられていても、なお支持率が3割を超えているという、この驚異の現実は、「認知的不協和」を自己欺瞞により解消しようとしている人々の存在抜きには到底説明しえないだろう。同時にこれは、ネット社会の広がりによる社会の分断とタコつぼ化により「認知的不協和」が蔓延しやすくなったという社会条件なしには成り立たない現象でもあろう。

       余談だが、安倍政権の成立以来、政権が行う悪事は、従来の政権のそれに比べて、程度のおいて10倍から100倍以上の悪事が、数においても数十倍もの規模で次から次へと繰り出されるため、普通の勤め人には、新聞記事を切り抜いたりしてニュースをフォローするだけでへとへとになってしまい、批判する力すら残っていないような状態で、しかも次々に発覚する悪事によって、相対的に過去の悪事が忘れ去られていくといった、わけのわからない不条理な状況が現出しているのである。

       

       なお、認知的不協和の理論を提唱したレオン・フェスティンガーは、「心理学のピカソ」とも称えられたスタンフォード大学のスター教授だったにもかかわらず、自分の研究が米軍のベトナム戦争遂行に残忍な形で利用されたことに苦悩し、教授の地位も家族も捨てて忽然と姿を消し、その後、ニューヨークのニュースクール・フォア・ソーシャルリサーチに一人の学生として入学し、若い女性と一緒になって、新たな人生を歩んだという。スタンフォード時代に家族ぐるみでつきあいのあった経済学者・宇沢弘文氏が明かしたエピソードである。


      We are all alone(高中正義vers.)

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        平気でうそをつく人たち

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          以下は、スコット・ペック『平気でうそをつく人たち――虚偽と邪悪の心理学』(草思社)からの抜粋・引用です(カッコ内の数字は頁)。

           

           

           <邪悪な人たちの中核的な欠陥は、罪悪そのものにではなく、自分の罪悪を認めることを拒否することにある>(94

           

           <自分自身の罪悪感に耐えることを絶対的に拒否する、というのがこの「一線を越えた」人たちの特性だ>(97

           

           <私が邪悪と呼んでいる人たちの最も特徴的な行動としてあげられるのが、他人をスケープゴートにする、つまり、他人に罪を転嫁することである。(……)彼らは、完全性という自己像を守るために、他人を犠牲にするのである。>(98

           

           <邪悪な人間は、自分自身の欠陥を直視するかわりに他人を攻撃する。>(98

           

           <自己嫌悪の欠如、自分自身にたいする不快感の欠如が、私が邪悪と呼んでいるもの、すなわち他人をスケープゴートにする行動の根源にある中核的罪である>(99

           

           <「イメージ」「外見」「外向け」といった言葉が、邪悪な人たちの道徳性を理解するうえで重要なものとなる。彼らには善人たらんとする動機はないように思われるが、しかし、善人であるかのように見られることを強烈に望んでいるのである。彼らにとって「善」とは、まったくの見せかけのレベルにとどまっている。これはとりもなおさず虚偽であり、私が彼らを「虚偽の人々」と呼ぶゆえんもここにある。

           虚偽とは、実際には、他人をあざむくよりも自分自身をあざむくことである。彼らは、自己批判や自責の念といったものに耐えることができないし、また、耐えようともしない。>(100

           

           <邪悪な人たちの異常な意志の強さは驚くほどである。彼らは、頑として自分の道を歩む強力な意志を持った男であり女である。彼らが他人を支配しようとするそのやり方には、驚くべき力がある。>(103

           

           <邪悪な人間は、自責の念――つまり、自分の罪、不当性、欠陥にたいする苦痛を伴った認識――に苦しむことを拒否し、投影や罪の転嫁によって自分の苦痛を他人に負わせる。自分自身が苦しむかわりに、他人を苦しめるのである。>(172

           

           <何が彼らにとりついているのだろうか。何が彼らを動かしているのだろうか。基本的にはそれは恐怖である。彼らは、その見せかけが破れ、世間や自分自身に自分がさらけだされるのを怖れているのである。彼らは、自分自身の邪悪性に面と向かうことを絶えず恐れている。>(174

           

           <自分の罪の意識に耐えようとしない、自分の不完全性を否定する、という邪悪な人たちの特性を考えるならば、邪悪性は〔人格障害という〕この幅広い診断カテゴリーに容易にあてはめることができる。また、この広い分類項目には、「自己愛的(ナルシシズム的)人格障害」と名づけられたサブカテゴリーもすでに設けられている。私の考えるところでは、邪悪性はこの自己愛的人格障害のひとつの変種として分類するのがまさしく妥当であると思う。>(177178

           

           <邪悪性はとくに次のような特性によって識別できる。

          1. 定常的な破壊的、責任転嫁的行動。
          2. (……)批判その他のかたちで加えられる自己愛の損傷にたいして過剰な拒否反応を示す。
          3. 立派な対面や自己像に強い関心を抱く。(……)これが、憎しみの感情あるいは執念深い報復的動機を隠す見せかけにも貢献している。
          4. 知的な偏屈性。>(179

           

           <私は、邪悪な人たちのほうが普通の人よりも政治的な力を得る可能性が高いのではないかと疑っている。その横暴ぶりがあまりにも常軌を逸しているために――また、つねに力にたいする渇望を伴ったものであるために、彼らにはそのチャンスが多く訪れるのではなかろうか。>(255256

           

           <集団凝集性を強化する最善の方法が、外部の敵にたいする憎しみを助長することだ。外集団の欠点や「罪」に関心を向けることによって、グループ内の欠陥は容易に、なんらの痛みも感じることなく看過される。>(275

           

           <邪悪な個人は、自分の欠陥に光を当てるすべての物あるいはすべての人間を非難し、抹殺しようとすることによって内省や罪の意識を逃れようとする。同様に集団の場合にも、当然、これと同じ悪性のナルシシズムに支配された行動が生じる。>(275

           

           <脅威にさらされたナルシシズムという条件から悪が生まれる。(……)強度のナルシシズムにとらわれた(つまり邪悪な)人間は、自己の完全性イメージをおびやかす相手にたいしては、だれかれおかまいなしに攻撃をしかける。>(290

           

           <ナルシシズムにとらわれている個人や国家には、自分の考えやものの見方が間違っているかもしれないと想像することすらできない…。われわれは、表面的には、自分が絶対に正しいなどとは言わないようにしているが、心の奥底では、とくに自分が成功し、権力を持っていると思われるときには、自分はつねに正しいと考えてしまう。>(296

           

           <邪悪性とは、ごく簡単に定義するならば、誤った完全性自己像を防衛または保全する目的で、他者を破壊する政治的力を行使することである。>(297

           

           

           


          中島岳志氏の立憲的改憲論

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             中島岳志氏が226日の東京新聞夕刊の論壇時評に「「立憲的改憲」論」と題する論稿を寄稿している。「立憲的改憲論」とは、かつては「護憲的改憲論」と呼ばれ、最近では「新9条論」と呼ばれることの多い主張のひとつであり、山尾志桜里・衆院議員が「立憲的憲法改正のスタートラインとは」(WEB RONZA 20171226日)の中で提起した議論を、中島氏は肯定的に紹介している。中島氏が賛同している山尾氏の主張とは、日本国憲法は「規律密度が低い」(憲法の文言が簡潔であるため、解釈の余地が大きい)ために、解釈を恣意的に歪曲する政権に対する統制力が弱く、そのような政権の恣意的憲法解釈を正す現実的手段を有していないため、憲法の権力統制規範性を回復させるためには、「行間を埋めてきた適切な憲法解釈を明文化する」改憲を行うことで、恣意性の余地を減らすとともに、憲法裁判所を設けて恣意的憲法解釈を是正する手段を確保する、ということである。中島氏はさらに、こうした主張の賛同人として伊勢崎賢治氏(「憲法9条を先進的だと思ってる日本人が根本的に誤解していること」WEB現代ビジネス26日)を挙げている。

             

             私はかつて自分の主宰している学習会で新9条論者の主張をまとめて批判したことがあり、その際、中島氏や伊勢崎氏の主張も取り上げ、また時間と紙幅の関係で最終稿からは外したものの、構想段階では山尾氏の主張も取り上げていたので、私にとってはそれほど目新しい主張はなく、新9条論のおかしさを改めて確認する場となったのである。

             

             山尾氏と中島氏がそろって間違っているように思われるのは、第1に、安倍政権による恣意的な憲法破壊の原因を、憲法自身の文言が簡潔であることに帰していて、それゆえ、憲法の条文にこまごました文言を書き込めば解釈改憲に歯止めをかけられる、と考えていることである。安倍政権、とりわけ安倍首相には、憲法を尊重擁護しなければならない(憲法99条)などという規範意識ははなから皆無であり、現行憲法を「みっともない憲法」と公言してはばかることなく、いかなるこじつけであっても、自分の都合のいいように憲法解釈を捻じ曲げようとする確信犯であるので、憲法の条文をいかに改正しようと無意味である。というより、本来、政治の責任であるものを憲法に責任を押しつける、完全な責任転嫁である。安倍政権のような立憲主義を破壊する政治を終わらせるには、安倍政権をそのもの、さらに言えば「安倍政権的」な政治そのものに終止符を打つしかない。今、切実に求められているのは、そのための政治闘争であって、安倍首相がごり押ししようとしている壊憲策動に対して、代替的な改憲案を提出して改憲ゲームに興じることでは断じてない。

             

             第2に、山尾氏も中島氏も改憲が必要な理由として、憲法の破壊と政治の暴走に歯止めをかけて立憲主義を守ることを強調しているが、その裏には、「専守防衛の自衛隊」を合憲化したいという本音が隠されているように思われる。特に、中島氏は、「現状において、個別的自衛権は憲法上、認められている。日本は他国からの攻撃に対して応戦する権利を有している。この自衛権の行使は戦争にほかならない」と述べている。しかも、この文章は、伊勢崎氏の論説を紹介・擁護する文脈で書かれているので、この見解が、中島氏のみならず伊勢崎氏のものでもあるように読める。しかし、私の理解が間違っていなければ、この憲法解釈は伊勢崎氏のものではない。伊勢崎氏は92項は「交戦国になる権利」を放棄したものであると述べているので、個別的自衛権の行使としての戦争も9条が否認していると解釈していることはほぼ間違いないと思う。憲法9条に個別的自衛権の容認と集団的自衛権の否認を書き込むという改憲案では伊勢崎氏も中島氏も山尾氏も一致しているとしても、伊勢崎氏はおそらく、現行憲法9条の解釈としては、中島氏のような自衛戦争合憲論を採っていないからこそ、9条の改定を主張しているのだと思う。また、それゆえに、伊勢崎氏は護憲派の友人たちに対して、「護憲のための解釈改憲は「矛盾」である」、「だから、自衛隊は違憲であると言い続けてほしい」と述べているのであろう。

             

             伊勢崎氏の主張には、賛同しないが、理解はできるが、中島氏のこの論説には正しいところがほとんどない。特に先ほど引用した憲法解釈は悲惨としか言いようがない。中島氏は、伊勢崎氏の主張のフリ(あるいは誤解)をしつつ、自らの主張として、「個別的自衛権は憲法上、認められている。日本は他国からの攻撃に対して応戦する権利を有している。この自衛権の行使は戦争にほかならない」と述べているが、これは要するに、「(個別的自衛権の行使として)戦争する権利は憲法上、認められている」と主張しているのに等しいのだが、「戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という91項をどのように解釈すれば、このような主張が成り立つのか、是非とも説明してもらいたいものである。自らがこのような解釈改憲を行いながら、安倍政権の解釈改憲だけを批判したところで説得力はないし、「欺瞞」と言われても仕方がないだろう。

             


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