遠くて近きもの・地獄(加藤周一)

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     30年代の日本のいくさは、宣戦布告を伴わない「なしくずし」の過程であった。そのとき政府は、「不拡大方針」を掲げながら大陸でのいくさを拡大し、「蒋介石を相手にせず」に、蒋介石を征伐しようとしていた。その頃「皇軍」とよばれていた日本帝国の自衛のための戦力は、「東洋平和」のために、「便衣隊」すなわち抵抗する中国人民と戦っていた。

     

     しかし南京は東京から遠かった。市民は「真相を知らされていなかった」し、また強いて知りたいと思っていたわけでもなさそうである。軍隊に召集されない限り、いくさは新聞紙上の出来事であり、毎日「赫々たる戦果」があって、日常の生活とはかかわりがなかった。食糧その他の必需品は、まだ不足していなかったし、生活の「リズム」は常に変わらず、身の周りでは、冠婚葬祭を含めて、万事が何事もないかのように進行していた。

     たしかに政府は、右の「テロリズム」に寛大で、左からの批判に厳しかった。周知のように、陸軍はそれを利用し、権力機構内部での影響力を次第に強めていたにちがいない。既成事実の積み重ね、政策の選択の幅の縮小、各段階での妥協の連続、ますます狂信的になってゆく軍国主義……しかしそれもまた「なしくずし」の過程であり、その過程のどこに、決定的な段階、すなわち方向転換のための最後の機会があったかを、見きわめることは、誰にとっても困難であった。一社会が「なしくずし」に破局に近づいてゆくとき、破局はいつでも遠くみえる。

     その頃、私は学生であった。今日の若者と同じように、試験にために俄か勉強をして、成功したり失敗したりしていた。空腹になると、深夜の屋台で「支那ソバ」を食べた。また運動競技の対抗試合や「トーナメント」に出場して、勝ったり敗けたりしていた。そのために合宿をしたり、旅行をした。また映画館に通い、築地小劇場で新劇を、歌舞伎座で歌舞伎を、新橋演舞場で人形芝居を、水道橋の能楽堂で能狂言を、要するに見物できるものは、何でも見物していた。いくさとの関係はそこにはなかった。

     日本国の将来には希望をもたなかったが、いつかいくさが私の身辺に押し寄せてくるだろうとは、信じ難かった。商店街を通ると、電灯が明るく、人通りが賑やかで、そこがやがて焼け野原になるだろう、とは想像できなかった。日比谷の公会堂では、ドイツ系のユダヤ人音楽家が、ピアノを弾いたり、管弦楽団を指揮したりしていて、その音楽会の帰りに、日比谷公園の木立の繁みの下を、銀座の方へ歩いてゆくと、耳にはまだショパンかブラームスの最後の和音が響いていて、通りすがりの若い女たちが、みんな美しく見えた。そのとき私は、いずれ破局が来るだろうとは考えてはいたが、その破局のなかで美しい女たちは音楽が、忽ちかき消えてしまうだろうとは、感じていなかった。太平洋のいくさの可能性は、あまりに想像を絶し、あまりに私の生活感情から遠かったのである。

     

     しかし太平洋戦争は、ある朝、突然、私たちの寝こみを襲った。もはやとり返しのつかない出来事として、おそらくは私自身を含めて数百万人の日本人の死を意味するほかはないだろう事業の始まりとして。それがどれほど私から遠くみえ、どれほどあり得ないことのように感じられていたとしても、そういう感じは、いくさが起こるか起こらぬかとは、何の関係もない。

     私は今そのことを想い出し、核兵器の時代に東アジアを舞台にした戦争を考える。もしそういう戦争が起これば、今度は数百万人でなく、数千万人の日本人が死ぬだろう。そういう事態は、太平洋戦争よりも、もっと想像し難い。しかし想像し難いことは、起こり得ないことではない。

     清少納言は、「遠くて近きもの・極楽」といった。もし清女をして今日に在らしめたならば、「遠くて近きもの・地獄」といって、「なしくずし」の軍国化の過程に警告していたかもしれない。今日の地獄とは、いくさである。

     

    (加藤周一『言葉と戦車を見すえて』ちくま学芸文庫、2009年)


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