丸山眞男と普遍的原理の立場

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     上の記事を書いた後、そこで紹介した丸山眞男と加藤周一の対談が収録されている『丸山眞男座談7』(岩波書店)を読み返しているのだが、非常に面白い。その中に、丸山眞男と鶴見俊輔との対談「普遍的原理の立場」が収録されているのだが、これまた極めて面白い。この対談は『思想の科学』19675月号初出とのことなので、対談時点では丸山53歳、鶴見44歳である。先日、瀬戸内寂聴が東京新聞のコラムで書いていたが、以前(といっても比較的近年のことだと思う)、寂聴、鶴見俊輔、ドナルド・キーンの3人で座談会を開いたところ、終始鶴見俊輔が一人でしゃべり続けたため(寂聴はそれはそれで面白く、笑って聞いていたそうだが)、後でキーンが抗議をして、再度座談会をやり直した、とのことだった。それほどおしゃべりな鶴見であるが、この丸山との対談では、やはり格の違いを感じたためか、鶴見の発言は短く、8割方は丸山の発言となっている。
     
     まず私が「面白い」と感じたのは、2人の話が噛みあっていない、というか、丸山が鶴見の話や質問に巻き込まれず(悪く言えば「相手にせず」)、終始自分のペースで話していることだ。よく対談や座談会では、一人が言いかけた話が、対談者(または座談会参加者)の無関係な話や質問によって中断され、最初の人の話が宙に浮いてしまうことがあるが、丸山の場合には全くそれがない。相手の話に惑わされず、あくまで自分の言いたいことを貫徹するのである。たとえばこんなふうである。
     

     鶴見 あのころは、どちらかといえば、木村健康とか竹山道雄に、ひじょうに近いグルーピングとか、分類される面もあったと思うんです。その後、分解して……。
     丸山 さっきの続きを言えば、そうだったんですよ。しかし、自分のことはなかなかわからないもんですね。(以下、丸山の、先ほどからの話が途切れることなく続いていく。)

     
     また、次のような「対話」もある。
     

     鶴見 丸山さんは日記をつけておられるそうですが……。
     丸山 つけてないですよ。(以下略)

     
     丸山が、自分の原爆体験が、自分の思想を練り上げる材料にできていないという話をした後の場面で、
     

     鶴見 何がその思想化を押しとどめたんでしょうか。
     丸山 わからないですけどねえ、それ。(以下略)

     
     さて、この対談が最も盛り上がる(それゆえタイトルにもなっている)のは、鶴見が吉本隆明による丸山批判をとりあげ、丸山には「アメリカ・ヨーロッパ的な座標軸というもので、日本の特殊性を見ていこうとする傾向」があり、現実のヨーロッパ・アメリカに対する幻想がある、という批判をどう思うか、と質問したのに対して丸山がややむきになって応答する場面である。丸山はまず、
     「何かの幻想を基準にしているということならだれだって、それはあると思う」
     と答えたあと、しばらく2人の対話が続き、さらに次のように述べている。

     丸山 (中略)ヨーロッパ・アメリカ敵というふうにいっしょにして言われるとすぐ、ヨーロッパとアメリカとはまるで違うじゃないかって反発したくなる。(中略)
     おまえはヨーロッパの過去を理念化してそれを普遍化している、と言われたら、わたしは、まったくそのとおりと言うほかない。他の文化に普遍性がないというんじゃもちろんないですよ。ただ、わたしの思想のなかにヨーロッパ文化の抽象化があるということを承認します。わたしは、それは人類普遍の遺産だと思います。固くそう信じています。
     (中略)
     過去のなにかを理念化するのがいけないというのなら、一切の思想形成自体が不可能になっちゃう。手品師じゃあるまいし、そんな何もないところからパッととり出すオリジナリティなんてものは、にせものにきまってますよ。(中略)

     
     丸山の吉本への反批判はまだまだ続くのだが、長くなるので割愛して、この対談で面白かった部分をもう一カ所だけ紹介する。それは丸山が、「普遍の強調は、いかに誤解されようが、特殊の強調が誤解されるほどわるくない、というのがわたしの根本の考えかたなんですよ。普遍主義も誤解されて、欧米主義になったり、変なこともたくさんあります。しかし、そのほうがまだましだ。特殊性の強調が「ウチ」的日本主義になるよりもね」と述べたあとの対話である。
     

     鶴見 教育者的なとらえかたなんですね。
     丸山 さっきのアマノジャクもあります。いま、どっちが俗耳に入りやすいか、どうですか。
     鶴見 それは普遍のほうが俗耳に入りやすいですよ。
     丸山 そこが、根本的に状況判断が違うんだ(笑)。あなたの判断は、実に知識人主義ですよ。政財界のおえらがた、大新聞社の幹部とか、広く日本の社会を見てごらんなさいよ。普遍的という発想とおよそ縁遠いですよ。人類普遍の理念とかそういった抽象的な理屈はどうでもいい。そんなものは学者のおしゃべりにまかしとけばいいと言って、つとめの帰りに、バーできれいな女の子を抱いて飲んでるほうが、それこそ普遍的―じゃない、一般的なんだ。そのくせ、日本の伝統とか、日本人の誇りなんていうと抽象的とは思わないで、ウンウンとうなずく。それが圧倒的な傾向ですよ。それがわかんないようじゃ、日常的なんていうのはやめたほうがいいな(笑)。わたしはあなたの哲学はおおいに信用しますよ。だけど前からあなたの日常感覚は信用しないんだ。あなたの感覚は、ひじょうに一般の日本人から浮いている。育った生活環境から言ってもわたしのほうがはるかにドロドロした「前近代的」なものなんですよ(笑)。

     
     この鋭い丸山の指摘に対して、鶴見は一言も反論できず、話題を転換することしかできていないが、これを読んで、私が鶴見に抱いていた違和感の一端が明らかになったように思った。
     
     話は変わるが、いわゆる「全共闘世代」の中には、吉本隆明の「信者」というべき信奉者が実に多い。彼らは大抵、丸山眞男は嫌いだが、吉本隆明は神のように崇めている。とっくに還暦を過ぎた人たちが、原発や安保法制に反対する運動で頑張っている姿を見ると頭が下がるが、そんな彼らが吉本信者であったりすると、一体この人は、「原発止めてサルになる」といって反原発運動を罵倒し続けた吉本の思想を、どう「総括」(なつかしくも怖い言葉だ)しているのかなと疑問になる。福島原発事故後も反=反原発の立場を変えなかった吉本に対し、「さすがは吉本さんだ、一貫性がある」と称賛していた人もいたが、一貫していれば、それだけで立派だ、などと言えないことは小学生でもわかるのではないか。一貫性が、それだけで称賛されるべきことならば、石原慎太郎など、実に称賛すべき差別主義者ということになろう。
     
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     新聞の投書欄は、新聞の中でも好きなページのひとつである。投書を読んで、ほっこりしたり、投書者と一緒に憤慨したり、共感したり、ときにはもちろん、自分とは異なる意見に違和感を抱いたりするが、読んで楽しいページである。今日(1月26日)の東京新聞投書欄に、「非正規労働者 44歳」の男性が、年賀状に対する違和感を述べている。「結婚しました」「子どもが生まれました」という報告型の年賀状をもらうと、最初は素直に祝福していたが、そういう年賀状が増えてくると、「独身の障がい者に対して、幸せそうな家族写真を印刷した賀状を出すのは、無神経ではないか?」と複雑な気持ちになってくる、と述べ、さらに、「年賀状は、相手の幸せを願って始まった伝統習慣と聞くが、自分の幸せ自慢しか頭にない人が多い社会になってしまった」と嘆いている。クリスマスや大型連休などの時期には「自殺に関する相談が増える」という話を紹介した後、「正月早々、友人知人の家族写真賀状を見なければならないのも、苦しい。筆が重くなり、今年はついに、似た境遇の二人と写真なし賀状を交換するのみとなってしまった」と結んでいる。
     私もこの投書者に全く共感する。(年賀状に限らないが)本当に、日本社会から、相手に対する配慮や慎みといったものが、年々消えていっているように感じる。私自身、年賀状は必要最小限しか出さなくなって久しいが、それでも現在でも付き合いがある人から来た年賀状には返事を出すことにしているために、完全には辞めることができないでいるが、年賀状廃止宣言をしたいという気持は何年も前から抱いている。


     

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      • 2017.04.08 Saturday
      • -
      • 09:37
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      • by スポンサードリンク

      コメント
      年賀状の家族写真もそうなんですけど、子育て中及び子育て経験者の人が、子供のいない人に対して「子供を持たない人間に何がわかるの?」っていう見方ってありますよね。確かに、私にも夫や、子供はいないんだけど、この年になって思うのは、「子供を持っていない感覚」っていうのがあるんだな、ということです。多分、「子供のいない人に何がわかるの」、っていう人は、自分の独身時代や、自分が子供を持つ前の感覚などを思い出して、そのままの延長で、世の独身者や、子供を持たない夫婦が生きている、と思ってるように思います。子供を持っている人は、「自分は、子供を持たない感覚と、持っている感覚の両方がわかる」、と思っている。でも、私に言わせると、そうじゃないんですよね。「子供を持っていない感覚」、っていうのは、非常に独特のもので、逆に子供を持っている人からは、計り知れない、わからない部分があると思います。私にとって、子供を持つ感覚は、確かに計り知れないし、持っている人に対しては、ちょっと臆するような気持ちにさせられるんだけど、でも、子供を持つ感覚がわかる人は、子供を持たない人間に対して、自分の感覚だけじゃ到底想像できない部分がある、という感覚を持ってほしい、と思うことがよくあります。
      • 響子
      • 2016/01/29 6:43 AM
      響子さん、コメントありがとうございます。

      そうですね。「子供を持っていない」感覚・・・。わかりますね。
      あと、「正社員になれない非正規雇用者」の感覚とか、その逆の立場の人にはほとんど理解されないような屈折した感覚ってあると思いますね。
      なぜか子供のいる人には、それだけで優位に立っているかのような感覚でいる人が多いように思います。
      もうひとつ不思議なことは、なぜか人は子供を持つと、自分の子供時代の気持ちを忘れてしまうように見えることです。「子供が勉強をしなくて困っている」とか、「親の言うことを聞かなくて困っている」と嘆く親が多いけれど、自分の子供時代を振り返れば、そんなことは当然のことで、そうじゃない方がむしろ心配だと思うのだけど、なぜ人は子供を持つと、自分の子供時代を忘れてしまうんだろうね。
      • 宇井宙
      • 2016/01/29 12:52 PM
      周りの友人で親になった人を見てると、皆、自分の子供には盲目になっているように思う。そういう子供への盲目性が、人を親の気持ちしかわからないようにさせてしまうのかな。親になるって、とても大変そうだけど、その大変さを乗り越えるには、きっと盲目じゃないとダメなんだろうね。子供の気持ちがわかるほど、客観的だったり、冷静だったりしたら、大きな犠牲を払ってまで、育てられないのかもしれない、と思う。
      • 響子
      • 2016/01/30 7:25 PM
      う〜ん、どうなんでしょう。そういう人ばかりではないとは思いますが、最近は少子化が進み、一人っ子が多くなっているので、親の注意・関心・期待が一人の子どもに集中してしまう傾向があることが、もしかしたら盲目性を高めているのかもしれません。
      あと、ぼくも子どもがいないので、詳しいことはわかりませんが、90年代半ばごろからでしょうか、ビデオカメラが家庭に普及し始めた頃から、運動会など学校の行事で、我が子をビデオに録画することだけに熱中している親の姿が報道されるのを見て、私はとてつもない違和感を覚えたことを記憶しています。どうしてそこまで自分の子ども「だけ」に熱中できるのか、そこに何かただならぬ異様さを感じました。
      • 宇井宙
      • 2016/01/30 11:37 PM
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