ウィリアム・ペリー元米国防長官の名言

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     昨年11月29日の朝日新聞デジタルにウィリアム・ペリー元米国防長官のインタビューが載っていた。紙面には全文が掲載されたかどうかは知らないが、デジタル版に掲載されたインタビューはかなりの長文だった(短縮版の記事もあった)。

     

     “腐っても鯛”、“日和っても朝日”、ということで、今なお影響力のある天下の朝日新聞の記事なので、目にした人も多いだろうが、その言葉の重要性をどのくらいの人が熟読玩味しただろうか。非常に重要なことを述べていたので、その一部を引用し、私の感想を付け加えたい。特に、若い人には是非注目して頂きたい。

     

     なお、ウィリアム・ペリー氏は第1次クリントン政権で国防長官を務め、(第1次)北朝鮮核危機問題に対応した人物だが、2007年1月と2008年1月には、キッシンジャー元国務長官らとともに、ウォール・ストリート・ジャーナル紙上で「核兵器のない世界に向けて」という呼びかけも行なっている。幕末に黒船を率いて日本を開国させたあのペリー提督の子孫にあたるらしい。現在はスタンフォード大学教授である。

     

     私が注目したのは「圧力外交の危険性」、「外交官の心得」、「理想を掲げることの重要性」の3点である。

     

    (1)圧力外交の危険性

     

     「94年に軍事攻撃をしていたら、北朝鮮は韓国に通常兵器で応戦し、深刻な事態になったでしょうが、(当時)北朝鮮は核兵器は保有していませんでした。しかし今日、彼らは核を使うかもしれず、犠牲者が甚大な数になり、桁違いの被害をもたらすでしょう北朝鮮への先制攻撃は実行可能とは思えません

     「危険なのは米朝とも戦争勃発を望んでいないのに、核戦争に図らずも突入するおそれがあることです

     「議論の余地がないのは、『いまは核戦争をする時ではない』という点です。私には軍事衝突に代わる手段が、外交以外にあるとは思えません。・・・対話しなければ、よい結果はそもそも得られません」

     「日本の指導者は、外交の失敗がもたらす帰結を理解する必要があります外交の不在や見境のない発言は、戦争に、非常に壊滅的な核戦争に突入する条件を醸成してしまいます。実行可能な軍事的解決策はないのです。私が驚くのは、実に多くの人が戦争がもたらす甚大な結果に目を向けていないことです。戦争は日本にも波及し、核(戦争)になれば、その被害は(韓国にとって)朝鮮戦争の10倍に、(日本にとって)第2次世界大戦での犠牲者数に匹敵する大きさになります。なぜ、これを人々が理解できないのか、私には理解できません

     

     昨年、北朝鮮はミサイル発射実験を繰り返し、6回目の地下核実験も行なったが、それをめぐって、トランプと金正恩(および北朝鮮高官)とは、「北朝鮮は、世界がこれまで目にしたことがないような炎と怒りに直面するだろう」、「史上最高の超強硬措置の断行を考慮する」などと互いに挑発を繰り返したが、あろうことか、わがシンゾー坊やもトランプの尻馬に載って「必要なのは対話ではなく、圧力だ」「米国の立場を一貫して支持する」などと挑発合戦の一方に加わった。これが日本にとってどれほど危険なことか、シンゾー坊やが理解できないのは仕方ないとしても、日本のマスコミも国民の多くも認識していないように見えるのは、ペリー氏の言う通り、驚くべきことである。

     米国と北朝鮮とが偶発的に戦争に突入した場合、北朝鮮が米軍基地の集中している日本を核攻撃する可能性は十分にある。現に、昨年5月2日の朝鮮労働党機関紙「労働新聞」は、「朝鮮半島で核戦争が起きた場合、米軍の兵站、発進、出撃基地になっている日本が真っ先に(核爆発による)放射能雲で覆われる」と明言しているのである。

     

     そうなった場合に日本や韓国が蒙る被害は想像に絶する規模になるだろう。ペリー氏はそれを、韓国にとっては「朝鮮戦争の10倍」、すなわちおよそ400万人、日本にとっては「第2次世界大戦での犠牲者数」、すなわち約310万人に達すると予想しているが、決して誇張ではない。ジョンズ・ホプキンス大学・高等国際関係大学院の北朝鮮分析グループが昨年10月発表した報告書によれば、北朝鮮が核兵器を使用した場合、東京とソウルの死亡者数は40万人ないし200万人、水爆が使われた場合には、130万人ないし380万人に達するだろうと予想しており、ワシントン・ポスト紙のジェフリー・ルイスが提出した推計では、200万人の米国人・韓国人・日本人が死ぬだろうと予想されている。

     

     軍事ジャーナリストの田岡俊次氏も126日号の『週刊金曜日』に寄稿した論稿「戦争の危険を招く「平和ボケのタカ派」」で、「もし米軍が北朝鮮を攻撃すれば朝鮮戦争が再開し、滅亡が迫る北朝鮮は自暴自棄となり、核ミサイルを在日米軍基地や東京などに発射する公算は高」く、「もし東京都心上空で爆発すれば初期放射線と爆風の被害半径は4キロ余、熱効果は7キロ近くに及ぶ。勤務時間中なら死傷者数は400万人に達しそうだ」と述べている。昨年1220日の『読売新聞』が掲載した日米共同世論調査では、「米国の北朝鮮に対する軍事力行使を支持する」と答えた人が47%(ちなみに米国では63%)もいたそうで、田岡氏は「唖然とした」と述べているが全く同感である。そうなった場合に、日本人や韓国人が蒙る被害に対する想像力が完全に欠如しており、救いがたい愚かさである。

     

     原発の破局的大事故と同様、たとえその蓋然性が低いとしても、いったん起こった場合の被害が破局的であれば、危険性は極めて高いと考えなければならないのだ。それさえわかっていれば、圧力や威嚇ではなく(武力による威嚇は日本国憲法はもちろん国際法にも反している)、対話と交渉による外交的解決しか方法がないことはすぐにわかるはずである。

     

     

    (2)外交官の心得

     

     「交渉に入る前から、交渉の結果に固執すれば、交渉にはならないでしょう。我々が北朝鮮にどうさせるのか目標を持ちながら交渉はできますが、交渉の前から、そうした合意を前提とした交渉はできません

     「北朝鮮の立場になって考えれば、彼らの考え方がわかる(要旨)。彼らの信条を共有はしないかもしれないが、彼らと交渉するなら、北朝鮮とその信条を理解しなければならない。彼らの望む方向に物事を動かさない限り、交渉は成功しないでしょう

     「外交の観点では『舌先』は、まったく重要ではない。外交官に必要なのは『耳』です。外交官は、相手方が何を言っているのか、何を信じているのか、耳を傾ける必要がある。それが外交官のすべきことだと思います

     

     

     これは何も「外交官」だけに必要な心得ではないだろう。交渉はもちろん、およそ人と対話や議論をするときには、相手の言い分に耳を傾け、相手の信条を理解しようとしなければ、実りある対話は決して成立しえないだろう。相手の意見を聴こうともせず、自分の意見だけをひたすら開陳しようとする人のなんと多いことか。

     

    (3)理想を掲げることの重要性

     

     「核兵器禁止条約は採択されてよかったと思う。そこから何か直接的な効果は期待できないけれども、声明は道徳的立場、倫理的立場であり、『こうあるべきだ』と言っている。たとえそれが実現しなかったとしても、そう発信することに価値がある

     「同僚の一人は、我々の最初の意見論文に関し、『直近の結果で判断すべきではなく、これが正しいことだという強い姿勢が、長期的な努力につながる』と言った。彼が例として引用したのは、200年以上前の米国で初期の文書(独立宣言)にあった言葉、『すべての人間は、平等に造られた』という声明でした」

     「当時、建国の父は『全ての人間は平等に造られた』と宣言しましたが、それはある意味、ナンセンスでした。奴隷がいて、女性は投票を認められていない。自分の家がなければ、白人男性でも投票権が認められていなかったのです。しかし、彼らはその原則を信じていた」

     「目標を持つことが重要で、それが推進力になる。今日でもまだ目標には到達していませんが、(独立宣言した)1776年より、現在は(目標に)大きく近づいている。建国の父たちが『すべての人間は平等に造られた』という声明を作る勇気がなければ、これほど目標に近づけたとは思えません」

     「いかなる国も核兵器を保有すべきではない、というのは今日では事実ではありません。ですが、それは、そうあらねばならないという原則です。そう発言する人が多いほど、そのことについて語る人が多いほど、それについて考える人が多いほど、我々はその目標に、より早く近づける。これが、私が国連決議について言えることです」

     

     

     ここには本当に重要なことが述べられている。次の3つの言葉は同じことを述べているが、何度でも味わいたい言葉なので、再度引用する。

     

     ・これが正しいことだという強い姿勢が、長期的な努力につながる

     

     ・目標を持つことが重要で、それが推進力になる

     

     ・そうあらねばならないという原則を発言する人が多いほど、そのことについて語る人が多いほど、それについて考える人が多いほど、我々はその目標に、より早く近づける

     

     


    「永続敗戦論」のその先へ

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       訳あって、白井聡氏の『永続敗戦論』をパラパラっと再読(というほどでもないが)した。この本は5年前の3月に出版され、論壇で結構話題となっていたので、私もその年の秋に買って読んだ。

       200頁ほどの本なので、色々なことが書いてあるが、本書の主張は要するに以下の部分に尽きている。

       

       <敗戦の帰結としての政治・経済・軍事的な意味での直接的な対米従属構造が永続化される一方で、敗戦そのものを認識において巧みに隠蔽する(=それを否認する)という日本人の大部分の歴史認識・歴史的意識の構造が変化していない、という意味で敗戦は二重化された構造をなしつつ継続している。(……)敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。かかる状況を私は、「永続敗戦」と呼ぶ。

      (……)彼らは、国内およびアジアに対しては敗戦を否認してみせることによって自らの「信念」を満足させながら、自分たちの勢力を容認し支えてくれる米国に対しては卑屈な臣従を続ける、といういじましいマスターベーターと堕し、かつそのような自らの姿に満足を覚えてきた。(4748頁)>

       

       このような際限のない対米従属と、その裏返しとしてのアジア諸国への尊大な態度、その両者を貫く「敗戦の否認」という「永続敗戦」を、白井氏は「戦後の「国体」」と呼ぶ。

       このような主張はレトリカルで面白いし、かなりの真実を含んでいる。しかし、あと一歩のところで問題の根源に届いていない、と私は思う。

       問題の根源は、「敗戦」の否認、ではなく、侵略戦争と植民地支配に対する認識と反省の欠如である。対米従属(およびアジア蔑視思想)の根源にあるのは、アジア太平洋戦争の原因となった大日本帝国の植民地支配とその延長にある侵略戦争に対する反省の欠如であり、「太平洋戦争では経済力と軍事力の格差によってアメリカには負けたが、アジア諸国に負けたわけではない」という歪んだ認識である。それゆえ、侵略戦争と植民地支配を根本的に反省することができず、経済力と軍事力に劣るアメリカには服従し続けるしかないし、むしろ第一の子分となることによって、アジア諸国に睨みを利かせられるという倒錯した思考である。

       

       そして、このような歪んだ歴史観(歴史修正主義)が異常な対米従属(むしろアメリカ恐怖症=恐米病というべきだろう)とアジア蔑視を再生産し続けているのである。

       

       したがって、戦後日本政治の歪みの根底にはこの異常な“恐米病”があるのだが、さらにその奥底には侵略戦争と植民地支配の総括ができない歴史修正主義が潜んでいるのだ。

       

       アジア太平洋戦争の問題は「負けた」ことではなく、不正な植民地支配と侵略戦争を引き起こしたことなのである。その総括がきちんとできていれば、アメリカであれ、どこの国であれ、恐れる必要は少しもなく、すべての国々と友好関係を結ぶことができるはずである。

       

       憲法が施行された年の8月、当時の文部省が新制中学1年の社会科の教科書として発行した『あたらしい憲法のはなし』の戦争放棄の章には、次のように書いてあった。今一度すべての日本国民が熟読すべき文章だろう。

       

      <こんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戰爭をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰爭をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戰力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。

       もう一つは、よその國と爭いごとがおこったとき、けっして戰爭によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぼすようなはめになるからです。また、戰爭とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戰爭の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。>

       


      安倍改憲案も石破改憲案も結果は同じ=9条抹殺である

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         毎日新聞が24日、「9条改正、「自衛隊明記」理解進まず」という記事を掲載しているが、その内容が極めて興味深い。

         NHKが今月68日に行った調査では、憲法9条の改定について、「9条を変える必要がない」が38%で最も多く、「戦力の不保持などを定めた92項を削除して、自衛隊の目的などを明確にする」が30%でこれに次ぎ、「戦力の不保持などを定めた92項を維持して、自衛隊の存在を明記する」は16%と少なかった。

         一方、読売新聞社が今月1214日行った調査によると、「92項を維持し、自衛隊の根拠規定を追加する」と「92項は削除し、自衛隊の目的や性格を明確にする」がそれぞれ32%34%で拮抗し、「自衛隊の存在を憲法に明記する必要はない」は22%と少なかった。

         これに対して、毎日新聞社が今月20日・21日に行った調査によれば、「憲法9条の1項と2項はそのままにして自衛隊を明記する」が32%と最も多く、「憲法9条の2項を削除して自衛隊を戦力と位置付ける」は12%と少なく、「自衛隊を憲法に明記する必要はない」は21%、「わからない」が27%だった。

         

         まさしく三者三様というべき結果である。912項はそのままで自衛隊を憲法に明記するという案を「安倍案」、92項を削除して自衛隊の目的・性格を明確にするという案を「石破案」と呼ぶとすれば、NHKでは「安倍案(16%)<石破案(30%)」だったのに対して、毎日では「安倍案(32%)>石破案(12%)」と正反対の結果になっている。これに対して読売では「安倍案(32%)≒石破案(34%)」と両者が拮抗しているのである。

         

         このような相異なる結果が出た原因は何か。もちろんひとつには設問の仕方も影響しているだろう。例えば、NHKでは「憲法9条を変える必要はない」という選択肢の支持が一番多かったが、読売と毎日ではそのような明快な選択肢がなく、「自衛隊(の存在)を憲法に明記する必要はない」と腰が引けた表現になっているため、そもそも9条改定の必要がないということに気付かない人も多かったかもしれない。

         それにしても、安倍案と石破案に対する評価が、NHK調査と毎日調査では正反対になった理由は何だろうか。NHKでは(「戦力の不保持などを定めた」という92項の説明を付記した点を除くと)「自衛隊の存在を明記する」の支持が少なく、「自衛隊の目的などを明確にする」の支持が多いという結果が出ているのに対し、毎日では、「2項はそのままにして自衛隊を明記する」の支持が多く、「2項を削除して自衛隊を戦力と位置付ける」の支持が少ないという結果が出ている。ここから読み取れるのは、「存在を明記する」ためだけなら改憲をする必要はないが、「目的などを明確にする」ための改憲ならいいのではないかと思う人が多く、しかし、その「目的」が「戦力と位置付ける」となると反対に転じる人が多いということかもしれない。

         

         結局のところ、自民党が一体何のための9条を改定しようとしているのか、また9条を改定すればどうなるのか、多くの人はよくわかっていないということなのだろう。

         毎日新聞記事は、「2項削除案は自衛隊を戦力と認めることだという理解が広がれば、首相案への支持が増えるとは限らない」と述べているが、2項削除案(石破案)にせよ、2項維持案(安倍案)にしろ、同じ結果になるということがよくわかっていないようである。なるほど石破案の方が法の論理としては一貫しているが、安倍政権が法論理の一貫性など全く気にしておらず、現行憲法の下で集団的自衛権を認めた安保法制を合憲だと強弁していることからすれば、2項を維持しようが削除しようが、自衛隊を明記すれば、集団的自衛権の名の下に世界中で米軍と一体となって戦争する自衛隊を合憲化することになることは火を見るより明らかである。

         

         重要なことは、2項維持改憲案(安倍案)と2項削除改憲案(石破案)の違いを理解することではなく、両者が全く同じ効果、すなわち9条の全面的抹殺をもたらすことを多くの国民に知らせることである

         

         最近、ほかにも気になる世論調査があったが、それについては、後日別途論じることにする。

         


        改憲国民投票運動という大問題

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           安倍首相は(1月)22日召集の通常国会に先立って開かれた自民党両院議員総会で、「(憲法改正を)いよいよ実現する時を迎えている。その責任を果たしていこう」と呼びかけた。安倍首相は今月(1月)4日の年党記者会見でも、「今年こそ、憲法のあるべき姿を国民にしっかりと提示し、憲法改正に向けた国民的な議論を一層深めていく。……そのような一年にしたい」と述べており、今年を国会での改憲案発議の年と位置付けていることはほぼ間違いない。来年は4月末〜5月初旬に天皇の退位、新天皇の即位、7月に参院選があることから、どうしてもその前に国民投票まで終えてしまいたいとの意向を持っているらしい。そこから逆算すると、今年の通常国会(6月閉幕だが、会期延長もありうる)か秋の臨時国会での改憲案の発議を目指しているらしい。

           いよいよ「憲法破壊」が秒読み段階に入ってきた。

           

           そこで最大の問題となるのは、国会が改憲案を発議した後、60日から180日の国民投票運動期間に行われる「国民投票広告」が野放し状態であることだ。「国民投票広告」には、賛成か反対どちらかへの投票を呼び掛ける「国民投票運動広告」と、個人または企業・団体が賛成か反対の意見表明を行う「意見広告」とがあるが、「国民投票運動広告」はテレビCMが投票日の15日前まで(国民投票法第105条)、「意見広告」に至っては投票日当日まで完全に野放し状態なのである。これが意味することは、金のある改憲派が広告合戦においては圧倒的に有利になるということである。

           

           本間龍『メディアに操作される憲法改正国民投票』(岩波ブックレット)によれば、改憲派は自民党の豊富な政党助成金に加え、経団連を中心とした大企業や個人からの献金を短期間で集められるため、カンパ頼みの護憲派とは集金金額において桁が違うことが予想される。しかも、改憲派は自民党(や日本会議)が集金母体になることが決まっているのに対し、護憲派はまずどこが中心となるかで調整に時間を要し、カンパが集まるにも時間がかかるだろう。さらに、改憲派は日本最大の広告代理店である電通が宣伝広告を担当することが決まっているので、電通を通じて改憲発議までのスケジュールを想定して広告発注を行い、テレビCMのゴールデンタイムをはじめ、あらゆる広告媒体の有料枠を事前に抑えることができる。これに対して、発注が遅れた護憲派のCMや広告は視聴率が低い「売れ残り枠」を埋めるだけになる可能性が高く、週刊詩や月刊誌においては、広告掲載枠を買い占められて、ほとんど何も掲載できないまま投票日を迎える可能性すら指摘されている。広告制作には通常、最低でも1〜2カ月を要し、広告枠の確保は3カ月ほど前から行われるため、あらかじめスケジュールを立てられる改憲派が絶対的に有利な立場に立つのである。

           

           しかも、広告を掲載するメディアは金さえ入ればよいので、賛成・反対両派に広告出稿を働きかけ、改憲派の方が出稿金額が圧倒的に多い場合(まず確実にそうなるだろう)、テレビ・ラジオなどの電波メディアは露骨に改憲派の肩を持つ番組制作を行う可能性もあるという。

           

           このように、電波メディアにおける広告資金量や発注タイミングに大きな格差がある場合、圧倒的な印象操作を生む危険性があるため、国民投票の長い歴史がある欧州各国では、テレビスポットCMは軒並み禁止されている。イギリス、フランス、スペインでは、テレビスポットCMは全面禁止で、公的に配分されるテレビの広報スペースは無料とされており、フランスでは賛成・反対両派の広報活動を監視する第三者機関が設置されている。イタリアではテレビスポットCMは原則禁止で、ローカル局で回数均等の場合のみ許可され、国営・民営放送ともに、公的に均等配分される広報時間が設けられている。さらに、テレビ放送関係者に対し、不偏不党を保つ細かな法規定がある。デンマークではテレビCMは全面禁止でローカル・ラジオのみCMが許可されている。

           

           これに対して、日本の憲法改正国民投票法では、投票日2週間前からの「国民投票運動広告」規制以外に、一切の広告規制がない。このまま改憲案発議を迎えてしまえば、護憲派が勝つ見込みはゼロであろう。テレビCM規制を盛り込んだ国民投票法改正を一刻も早く行うことが絶対に必要である。それまでに改憲発議を許すようなことがあってはならない。

           

          <参考文献>

          本間龍『メディアに操作される憲法改正国民投票』(岩波ブックレット)


          平和と戦争

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             同じく121日付東京新聞「こころ」面の「今週のことば」。ここで筆者の中村薫氏は、「平和のためになにをしたらよいか 君自身が平和の人となり給え」という毎田周一氏のことばを紹介している。

             では、「平和の人」になるにはどうすればよいのか。それは書いていない。自分で考えなければならないのだろう。

             

             ところで、「平和」とは「戦争」の対義語だと思っている人が日本には多いと思うが、これは正しくない。なぜなら、戦争がなくても平和ではない状態、戦争準備に邁進しているような状態が存在するからだ。たとえば、今の日本がそうである。格差と貧困が蔓延し、人権が保障されず、差別と偏見、ヘイトスピーチが蔓延しているような事態は到底「平和」とは言えないからだ。

             

             日本国憲法が、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と述べているように、「平和」とは、あらゆる「恐怖と欠乏から免れ」ている状態、戦争だけでなく、貧困や飢餓、抑圧やテロといった、人間を隷属化し非人間化する構造的暴力のない状態こそが「平和」(積極的平和)である。

             

             そして、平和でなければ人権が保障されないことから、イラク平和訴訟・名古屋第7次訴訟第1審判決(田近判決、2007.3.23)は、「平和的生存権は、すべての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利であり、憲法9条は、かかる国民の平和的生存権を国の側から規定しこれを保障しようとするものであり、また、憲法第3章の基本的人権の各規定の解釈においても平和的生存権の保障の趣旨が最大限に活かされるよう解釈すべきことはもちろんで」あると述べている。さらに、イラク派兵違憲訴訟・名古屋高裁判決(青山邦夫裁判長、2008.4.17)も、「このような平和的生存権は、現代において憲法の保障する基本的人権が平和の基盤なしには存立し得ないことからして、全ての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利である」と明言した。

             


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