ポピュリズムとは何か(2)

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     126日付東京新聞夕刊「論壇」は、中島岳志の「ポピュリズムと民主主義――リベラルの価値が危機」を掲載していた。中島はその中で、水島治郎『ポピュリズムとは何か』(中公新書)と遠藤乾「ポピュリズムって民主主義と何が違う? 知っておくべき『5つの事』」を紹介している。

     

     中島は、まず水島の「民衆の参加を通じて、『よりよき政治』をめざす、『下』からの運動」というポピュリズムの定義を紹介したうえで、反権力という側面が強調されれば「左派」、反福祉という側面が強調されれば「右派」、というように、敵の設定次第で様々なイデオロギーと結びつくことが特徴だと述べる。さらに、水島は、ポピュリズムは民主主義的側面だけでなく、リベラルな主張を取り入れることで、イスラムや移民を排斥することもあると指摘しつつも、総じて、負の側面よりも、積極的な側面を強調しているように思われる。

     

     それに対して、遠藤は、ポピュリズムがリベラルな価値とは相容れないことを指摘し、負の側面を強調しているようである。

     

     中島はこの文章を、「ポピュリズムは今年最大の政治的課題だろう。まずは欧米の動向を注視したい」と述べて結んでいる。

     

     ごく短い論説ながら、紹介された限りで判断すると、水島と遠藤の最大の違いはポピュリズムとリベラリズムとの関係に関する評価にあるようだ。そして、この点に関する限り、遠藤の主張に分があるように思われる。リベラリズムは、思考の特徴としては、普遍化可能な議論に訴える点で、「敵・味方」二元論を採るポピュリズムとは相容れ難く、政治的志向性においては、少数派の人権を重視する点で、「我々=多数派」の利益と感情に訴えるポピュリズムとは対極に位置するように思われるからだ。

     


    朝日新聞の「成長力」

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      昨日(126日)の朝日新聞「天声人語」。

      「ただ批判に明け暮れたり、言論の府である国会の中でプラカードを掲げても、何も生まれません」という安倍首相の施政方針演説の言葉を取り上げ、自民党が野党時代にせっせとプラカードを持ち込んでいたことを指摘した後、「野党から発言を訂正するよう迫られた首相は、力強く切り返した。「訂正でんでんというご指摘は当たらない」。訂正云々(うんぬん)を読み違えたらしい」と続け、最後は、「プラカードをやっつけても何も生まれません」と結んでいる。

      要するに、安倍首相を揶揄して留飲を下げているのである。

       

      確かに、「云々」を「でんでん」と読む一国の首相の国語力には驚かされるが、こと安倍首相や麻生副総理についていえば、もはや驚くのも馬鹿らしい。何せ安倍晋三ときたら、「成蹊」と名の付く学校に、小学校から大学まで16年間も通っていながら、「蹊」の字どころか、「成」という漢字が書けない御仁である。20年以上国会議員を、5年以上首相を務めていながら、立法府と行政府の区別もできない御仁である。「漢字一文字」の意味も理解できない御仁である。(200612月、テレビ局のリポーターに「今年一年を漢字一文字で表すと」と訊かれ、「変化」と答え、リポーターが再び、「総理、一文字で表すとすれば…」と問いかけても「責任、ですかね」と答えた。)「TNT火薬」を「NTT火薬」と読んでしまう御仁である。集団的自衛権の比喩として、「アソウさんは私の前を歩いてくれている。そこに3人の不良が出てきて、アソウさんに殴りかかった。私はアソウさんと一緒にこの人たちに対応する」と話した御仁である。南スーダンの危険性を永田町と比較した御仁である。法案に関する説明が「正しい」と言い張る理由として「私は総理大臣なんですから」と述べた御仁である。「明白な危険」の基準を問われて「明白な危険というのは、まさに明白なんです」と答えた御仁である。

      こんなアホが「云々」を「でんでん」と読んだところで、「さもありなん」である。

       

      こういう話題はツイッターやブログにはふさわしいだろうが、天下の朝日新聞がこんな話題で留飲を下げている場合だろうか。

      いや、留飲を下げてもいいのだが、こんな皮肉を言いたくなったのは、このところ歴史問題に関する朝日の報道姿勢がひどすぎるからである。

       

      例えば、先日のアパホテルの南京虐殺否定本報道は実にひどかった。119日の朝日新聞報道では、この事件について、アパグループ側と中国側の言い分をあたかも中立的傍観者のように報道していた。揚げ句の果てに、「明らかに公序良俗に反するならともかく、ホテル側にも表現の自由、経営の自由がある。不快に思う人には泊まらないという選択肢もある。騒ぎすぎるのも良くないのではないか」という観光学者のコメントや、「中国の人たちが日本全体のおもてなし業界に不信感を持つことが心配だ」という旅行会社のコメントで締めているのである。

       

      この事件の核心は旅行や観光問題なのだろうか。

      唖然とする。

      この問題の核心は、まさに朝日のような日本のメディアが、このような歴史修正主義妄言を放置し続けた結果、今では日本人の多数が歴史の真実が何なのかが、まるでわからなくなってしまっていることである。

       

      思えば3年前、従軍慰安婦問題報道で右翼メディアから異常なバッシングを浴びた朝日新聞社は、最終的に2014911日、社長が謝罪会見を開き、全面屈服した。この事件をきっかけに、安倍首相が「慰安婦問題の誤報で多くの人が苦しみ、国際社会で日本の名誉が傷つけられた」と放言したり、外務省がアジア女性基金の「拠金呼びかけ文」をホームページから削除したり、政府が慰安婦を「性奴隷」と表現した1996年の国連報告書について、報告者のクマラスワミ氏に内容の一部撤回を申し入れといった動きが起き、あたかもこれまでの従軍慰安婦報道全体が怪しかったかのような雰囲気が生まれ、日本における歴史修正主義が一段と活気づく契機となった。

       

      この意味で、朝日新聞の罪は本当に重い。朝日はこの事件から、「歴史修正主義は批判しない」という教訓を学んだのだろうか。

       


      ポピュリズムとは何か(1)

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         トランプ政権の行方については全く先が見通せない。あのチョムスキー氏がトランプの「もっとも際立った特徴は予測不可能だということにあります」と述べている(『現代思想』2017年1月号)くらいだから、私ごときに予想ができようはずもない。しかし、昨年の英国の国民投票でのEU離脱派勝利と、トランプ大統領候補の勝利を受けて、「ポピュリズム」という言葉がにわかに日常政治用語と化したが、その割には、その意味するところが必ずしも明瞭ではないように思われる。もちろん、「ポピュリズム」という言葉自体は、19世紀末にアメリカで誕生した「人民党(People’s Party)の政治的立場を表すものとして誕生して以来、1世紀以上の歴史をもち、これまでにも様々な政党や政治家の立場や政治姿勢を指す言葉として用いられてきた。しかし、これまでは、ポピュリズムとは「民主主義の逸脱形態」というマイナスイメージを帯びた言葉として批判的に用いられる、例外的な政治現象だと思われていた。ところが、今や、ポピュリズム的傾向を持つ政治家や政党は、欧米でも日本でも、もはや例外とは言えないほど蔓延し、むしろ原則と例外とが入れ替わるのではないかとすら思われるような状況になっている。

         

         このような状況を踏まえて、ポピュリズムとは何であるのか、改めて考えてみたいのだが、現在の私にその答えはなく、答えを探すためには勉強(読書)が必要だが、目下のところ、仕事が非常に忙しくて、読書のための時間がなかなか取れない状況である。そのため、すき間時間ができたときに、断片的に気づいたことをメモしていくことにしたい。したがって、一体いつになったら答えが見つかるのか、否、そもそも答えがみつかるかどうかも現時点ではなんともいえないのが偽らざるところである。

         

         第1回目の今日は、主として、森政稔「ポピュリズムの政治思想的文脈」(前掲『現代政治』)に依拠しつつ、ポピュリズムの特徴を抽出してみたい。

         

         ポピュリズムの特徴として一般的に挙げられるのは、以下のようなものである。

         

        • 既得権益層・既成政党批判=腐敗したエリートへの攻撃
        • (「疎外された」「見捨てられた」と感じている)大衆の被害者意識や怒りや復讐心などの感情に訴える
        • 「敵」対「味方」(「我々」対「彼ら」)という二分法=善悪二元論
        • 「敵」(「既得権益層」「移民」「イスラーム」「日本経済」「グローバル資本主義」など)を設定することによって「味方」=「我々」=支持者を動員する
        • 自らを「代表されない利益の代表者」として演出する
        • 強いリーダーシップを演出する
        • メディアやSNSの利用による政治の「劇場」化
        • 争点の極端な単純化・ステレオタイプ化・誇張

         

         このような特徴を持つポピュリズムは、政治イデオロギー的には右翼から左翼まで存在しており、現に昨年の米大統領選挙では、トランプが右派のポピュリズムだとすれば、民主党候補として予想外の大健闘をしたバーニー・サンダースは左派ポピュリズムとする見方も多い。スペインのポデモスや、99年のベネズエラでのチャベス大統領就任から始まった中南米の左派政権も左派ポピュリズムの流れにあると見られる。ただし、近年の欧州で台頭著しいのは、オランダの自由党、ドイツのための選択肢(AfD)、フランス国民戦線、イタリア北部同盟など右翼ポピュリズムであることは言うまでもない。今年3月に行われるオランダ総選挙、4~5月のフランス大統領選挙、9月のドイツ連邦議会選挙などで、こうした政党がどこまで支持を広げるか、目を離せない。

         

         上記のような特徴を見ると、「大衆迎合主義」という訳語は適切ではないことがわかる。あらかじめ存在している大衆の欲求や願望に政治家が迎合しているといったことではなく、政治家や政党が「敵」や「争点」を設定して既存秩序の破壊者を演出する一方で、そのような政治家・政党に大衆が喝采を送り、「敵」への攻撃によって溜飲を下げるという現象との相互作用として捉える必要があるだろう。そのような現象を一言で表す日本語が今のところ存在しないので、不本意ながら「ポピュリズム」というカタカナ英語をそのまま使用せざるを得ない。

         

         ポピュリズムを支えるのは、森氏の指摘しているように、既存政治への不信感と同時に、政治には何でもできるはずだという性急で過剰な期待感なのである。

         

         


        歴史修正主義と表現の自由

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          A(中国人留学生)とB(日本人学生)の架空対話

           

          B 耐震偽装で有名なアパホテルが南京大虐殺を否定する書籍を全客室に置いていたことが問題になっているね。

           

          A 全く日本人はどうして自国のやった歴史を直視できないのかしら?

           

          B いや、日本人全体がそうだというわけじゃないよ。

           

          A それはそうよ。だけど、首相をはじめとして、歴史修正主義言説がこれだけ大手を振るっている国はちょっとほかにないんじゃないの。

           

          B 確かに、残念ながら、それは認めざるを得ない。

           

          A どうして日本人は、いや、日本人の多くは、というべきでしょうけど、自国の歴史の真実を知ろうとしないの?

           

          B う〜ん、難しい質問だね。ひとつは、学校で近現代史をきちんと教わっていないこと、もうひとつには、マスコミの右傾化が進んできたことが主な原因かな。

           

          A 学校で近現代史をきちんと教えないというのは信じられない話ね。それは政府の方針なの?

           

          B いや、必ずしもそういうわけではないと思う。理由はぼくにもはっきりわからないけど、古代の歴史から授業を始めて、昭和に入ったあたりで時間切れになってしまって、後は各自で勉強するように、という学校が多いみたいだね。それに、もしかしたら学校の先生も近現代史の知識に自信がないのかもしれないね。

           

          A へえ〜! それでよく歴史(社会科)の教師が務まるわね!

           

          B いや、今のはあくまでぼくの推測だよ。あるいは、南京大虐殺や従軍慰安婦の問題について詳しく教えたりすると、右翼的な親から苦情がくるのかもしれない。あ、そうそう。言い忘れていたけど、最近は教科書検定が厳しくなって、自国の負の歴史記述については、書き直しをさせられるケースが増えてきているらしいよ。

           

          A じゃあ、やっぱり政府の方針なんじゃないの。

           

          B うん、そういう意味ではそうだね。だけど、学校が近現代史をきちんと教えないのは、政治が今のように右傾化する以前からの問題でもあるんだよね。

           

          A なるほどね。ところで、このあいだ本屋に行ったら、南京大虐殺を否定するような本が山積みになっていたけど、こんな本の出版は法律で禁止すべきじゃないの?

           

          B いや、それは無理だろう。日本では憲法で表現の自由が保障されているから、どんな馬鹿げた本であっても、出版の自由は保障されなければいけないよ。

           

          A 表現の自由が大切なことは私だって知ってるわ。だけど、明らかな虚偽を宣伝するのは表現の自由とは言えないんじゃないかしら。

           

          B 確かに、表現の自由と言っても、人権には内在的制約があるから、他人の名誉を毀損したりプライバシーを侵害したりするような表現は制約される場合があるけど、歴史修正主義は直接誰かの人権を侵害するわけではないから、一応、表現の自由の保障が及ぶと思うよ。

           

          A それはおかしいわね。南京大虐殺の犠牲者の家族や生存者(サバイバー)は大勢いるから、南京大虐殺はなかったというような言説は、彼らの名誉や人格権を傷つけているんじゃないかしら。

           

          B う〜ん。確かにそういう側面はあるだろうけど、一方で、表現の自由は民主主義を支える非常に重要な人権だから、出版を禁止するといった極端な規制をとりうるは、もっと制限的でない他の手段が存在しないといった例外的な場合に限られるべきだと思う。歴史修正主義言説に対しては、あくまでもそれを批判し、歴史の真実を知らせる言説によって対抗すべきだと思う。言論には言論を、というのが原則であるべきだよ。

           

          A 日本では「言論には言論を」という原則は機能しているのかしら? 機能していたら、これほど歴史修正主義言説がはびこるようなことはなかったんじゃないかしら?

           

          B う〜ん、厳しい指摘だねえ。日本でも歴史修正主義を批判して、歴史の真実を知らせようとしている学者やジャーナリストは少なからずいるんだけど、そういう言論は、残念ながら、歴史修正主義言説の受け手には届いていないみたいだね。

           

          A 歴史修正主義言説の受け手に届いていないだけじゃなくて、普通の一般読者層にも届いていないんじゃないかしら?

           

          B う〜ん、そうかもしれない。歴史修正主義言説と、それを批判するカウンター言説とが入り乱れていて、普通の人には何が真実なんだかわからないという状態になっているのかもしれないね。

           

          A 去年、オクスフォード大学出版局が「今年(2016年)の言葉」に選んだ「post-truth」の時代っていうわけね。

           

          B そうだね。新聞や本が読まれなくなる一方で、インターネットで情報を得る人が増えたために、自分の好きな情報だけを収集して、都合の悪い情報を排除する「情報のタコツボ型社会」化が進んでいるんだろうね。

           

          A ところで、さっきの話に戻ると、日本には表現の自由があるから歴史修正主義言説は規制できないっていう意見だったわね?

           

          B うん、そうだね。

           

          A でも、フランスでは1990年に、ナチスのホロコーストのような「人道に対する罪」の存在を否定する言論を刑事罰で禁じる法律が成立したのはご存知?

           

          B いや、それは知らなかった。

           

          A まさか、フランスには表現の自由がないとは言わないでしょうね?

           

          B そりゃそうさ。でも、おそらくフランスでその法律が成立する際には、賛否両論が激突しただろうね。

           

          A あなたはこういう法律を日本で成立させることには反対なの?

           

          B そうだねえ。やっぱり反対するだろうね。

           

          A 虚偽の表現で誤った知識を植え付けられたり、人権を侵害されたりするのを防ぐよりも、虚偽表現の自由の方が大事だということ?

           

          B いや、そういう意味じゃないよ。正しい歴史を教えるためには、誤った歴史記述を禁じるのではなく、言論の自由な市場の中で、正しい記述と誤った記述を対決させることによって、正しい記述の正しい所以がいっそう明らかになるという方が優れたやり方だと思うからだよ。実はこれ、ミルの『自由論』からの受け売りなんだけどね。

           

          A 所詮、浮世離れした理想論ね。

           


          「それってすごく誇らしい」?

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             「妄想分断社会」で述べたような、自分にとって都合のいい情報だけをつまみ食いしたり、「日本ボメ」で自分が褒められたような気分に浸りたいという心性は、別にネトウヨに限られた現象というわけではなく、護憲派の中にも見出される。「憲法9条を世界遺産に」だとか、「憲法9条(を保持する日本国民)にノーベル平和賞を」といった運動や考え方にも、そうした「日本ボメ」に似た感性を感じるが、最近では9条の発案者が幣原喜重郎であり、日本人が9条を発案した、ということを強調する言説がある。『週刊金曜日』20161212日号の記事「『週刊金曜日』女子会」における黒澤いつき弁護士の、「幣原の提案によってマッカーサー3原則の中に「戦争放棄」が入った。日本国憲法の「戦争放棄」は日本から始まったんです」、「9条は日本の提案。それってすごく誇らしい」といった発言などはその典型であろう。「9条は幣原が提案した」(A)=「9条は日本人が提案した」(B)=「9条はGHQの押しつけではない」(C)=「9条は日本人が提案したので、日本人として誇らしい」(D)といった図式が何一つ疑われることなく、あっけらかんと表明されているのである。9条を発案したのは誰かという問題は、憲法制定史的には興味のある問題だとしても、政治的には全く重要な問題ではない。9条を発案したのが誰かという問題は、憲法が押しつけであったか否かという問題とは無関係だし、ましてや日本人が9条を誇りにできるか否かという問題とは何の関係もない。日本人が9条を誇りにできるときが来るとしたら、それは、日本人の多数が9条の非武装の理想を自らの理想とし、それを政治的に実現したときだけである。今、「9条維持派」が「9条改定派」を上回っているとしても、「9条維持派」の多くは自衛隊と安保容認派であり、9条を「専守防衛」と解釈しているのであれば、専守防衛の憲法など世界的に見ていささかも斬新なところがない以上、何の誇りにもなりえないであろう。それはただ、「日本人だから日本を誇りに思う」というのと少しも変わらない幼稚なナルシシズムにすぎない。これは、仮に(A)・(B)が事実だと仮定しても、そのことだけでは(D)の根拠にはなりえない、ということである。

             では、仮に(A)・(B)が事実ならば、(C)は成り立つのだろうか。これは、“誰が”「押し付けられたのか否か」ということをはっきりさせないと答えられない問題である。“日本国民が”「押し付けられたか」と問われれば、当時の多数の国民が9条を含む憲法を歓迎していた以上、「押しつけではない」ということになろう。一方、“日本政府が”「押し付けられたか」と問われれば、これはもう「押し付けられた」というしかないだろう。これは、9条の発案者が誰であったかという問題とは無関係である。仮に幣原が戦争放棄条項を発案し、それを1946124日のマッカーサーとの会見の場でマッカーサーに話し、それにマッカーサーが共感して23日のマッカーサー3原則に取り入れられたというのが事実だとしよう。だとしても、213日にGHQGHQ草案を日本政府に手交し、それを受け取った日本政府が(その後の抵抗も功を奏さず)GHQ草案を基本的に受け入れるしかない、つまり「押し付けられた」と感じた、という事実は変わらない。仮に幣原自身は戦争放棄条項を含むGHQ草案が提示されたことを内心では喜んでいたとしても、当時の幣原は、他の閣僚と共にGHQ草案の受け入れに反対し、最終的に受け入れを決定した35日の閣議の際も、「かような憲法草案を受諾することはきわめて重大な責任である。おそらく子々孫々に至るまでの責任であろうと思う。(中略)だが今日の場合大局の上からそのほか往く道がないと思う」と発言し、涙をふいた閣僚もいた、という事実は変わらない。つまり、当時の日本政府が幣原一人の内心を例外として、政府全体としては「押し付けられた」感を抱いた事実はいささかも揺らがないであろう。つまり、仮に(A)・(B)が事実だとしても(C)は成り立たない、ということである。ただ幣原の内心を偽る外見的演技の卓抜さだけが奇妙な印象を残すのではないだろうか。

             ところで、件の黒澤弁護士は、幣原の「子々孫々に至るまでの責任」発言について、「嘘でしょ」と切り捨てているが、その根拠は示されていない。ただ「そもそも憲法9条の戦争放棄条項は幣原喜重郎が提案したんだから」と述べているだけである。しかし、件の幣原発言は、当時の閣僚であった芦田均の『制定の立場で省みる日本国憲法入門』(書肆心水、2013年)の中に採録されている。これは1957125日に学士会館で行われた「憲法調査会第7回総会」の速記録に基づき、『いまの憲法をこう思う』(1958年、自主憲法期成同盟出版部)の第1部「制憲作業の内側からみる」から再録されたものである。この芦田の記述(もとは発言)を、何一つ根拠を示さず、推測だけで「嘘」だと決めつけてよいものだろうか。一方、「そもそも憲法9条の戦争放棄条項は幣原喜重郎が提案した」という根拠として、平野三郎氏の幣原へのインタビューを挙げている。これについては後述する。

             では、果たして(A)の9条幣原発案説は事実なのだろうか。9条幣原発案説は、もともと幣原自身が1950年に読売新聞に連載した「外交五十年」(翌年、読売新聞社から同タイトルの単行本として刊行)の中で言い出したことであり、マッカーサーも5155日米上院軍事外交合同委員会で同趣旨の証言をしているから、昔からよく知られた説であった。これら2人の当事者が証言しているのだから間違いないかといえば、そうともいえず、様々な状況証拠からどうもこの2人の証言は信じられないという意見があちこちから出ており、その後、憲法史研究の第一人者である古関彰一氏の『平和憲法の深層』によって、決定的な疑問符が付くに至った。ところが、昨年、幣原発案説が再び、俄かに脚光を浴びたのは、2つの文書が関係している。ひとつは、黒澤弁護士が全面的に依拠している平野三郎の文書「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」が収録された『日本国憲法 9条に込められた魂』(鉄筆文庫)が出版されたこと、もうひとつは堀尾輝久・東大名誉教授が幣原発案説の“新史料”を“発見した”というニュース(東京新聞2016812日)である。前者については、「護憲派のガセ本(1)(2)(3)」という記事で、後者については「9条幣原発案説の亡霊」という記事で徹底的に批判したので、ここでは繰り返さない。いずれにせよ、9条幣原発案説は支持し得ない、というのが私の結論である。そこで述べたことの要旨は東京新聞にも週刊金曜日にも伝えたが、いずれも無視された。幣原発案説は間違いだ(証明されていない)という意見では「気持ちよくなれない」からかもしれない。


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