平和と戦争

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     同じく121日付東京新聞「こころ」面の「今週のことば」。ここで筆者の中村薫氏は、「平和のためになにをしたらよいか 君自身が平和の人となり給え」という毎田周一氏のことばを紹介している。

     では、「平和の人」になるにはどうすればよいのか。それは書いていない。自分で考えなければならないのだろう。

     

     ところで、「平和」とは「戦争」の対義語だと思っている人が日本には多いと思うが、これは正しくない。なぜなら、戦争がなくても平和ではない状態、戦争準備に邁進しているような状態が存在するからだ。たとえば、今の日本がそうである。格差と貧困が蔓延し、人権が保障されず、差別と偏見、ヘイトスピーチが蔓延しているような事態は到底「平和」とは言えないからだ。

     

     日本国憲法が、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と述べているように、「平和」とは、あらゆる「恐怖と欠乏から免れ」ている状態、戦争だけでなく、貧困や飢餓、抑圧やテロといった、人間を隷属化し非人間化する構造的暴力のない状態こそが「平和」(積極的平和)である。

     

     そして、平和でなければ人権が保障されないことから、イラク平和訴訟・名古屋第7次訴訟第1審判決(田近判決、2007.3.23)は、「平和的生存権は、すべての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利であり、憲法9条は、かかる国民の平和的生存権を国の側から規定しこれを保障しようとするものであり、また、憲法第3章の基本的人権の各規定の解釈においても平和的生存権の保障の趣旨が最大限に活かされるよう解釈すべきことはもちろんで」あると述べている。さらに、イラク派兵違憲訴訟・名古屋高裁判決(青山邦夫裁判長、2008.4.17)も、「このような平和的生存権は、現代において憲法の保障する基本的人権が平和の基盤なしには存立し得ないことからして、全ての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利である」と明言した。

     


    フェイクニュースの時代

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       同じく121日付東京新聞特報面の右サイドは、今月5日に発売されたトランプ政権の暴露本『炎と怒り』に関する記事で、なかなか考えさせられた。

       

       暴露本の読者はもっぱら反トランプ派の民主党支持者であり、トランプ支持派はトランプ氏同様、「でっち上げだ」「フェイクニュースだ」と反発するか無視するだけで、いずれにしても読む可能性は低く、両派の分断の壁を厚く、高くするだけだ、というのである。

       

       そういえば先日、トランプ大統領が「フェイクニュース賞」を発表し、自身に批判的な報道機関を「最も腐敗し、偏見に満ちたメディア」と攻撃したという冗談のようなニュースを読んだばかりである。政権が自らに批判的なメディアに圧力をかけ、政権自身がフェイクニュースを広めるというのは、日本と全く同じだが、日本ではそれがもう丸5年以上続いている。

       

       保守的な傾向を持つ人はフェイクニュースを信じやすいという研究がある一方、ファクトチェックによるフェイクニュースの排除効果はわずか数パーセントという研究もある。また、陰謀論サイトの愛読者は、陰謀論が偽ニュースであるとの報道に接すると、ますます陰謀論サイトを読み続ける傾向があるという研究もある。フェイクニュースが流行る背景には社会が分断されているという感覚があると言われているが、それだけではまだ十分な説明にはなっていない。

       

       いずれにせよ、「ポスト真実の時代」と言われる今日、深刻なのは、フェイクニュースに対して単に「事実を突きつける」だけでは、フェイクニュースを排除することが著しく困難だ、ということだ。その意味で、19世紀にジョン・スチュワート・ミルが『自由論』で論じたような、真実と虚偽を対決させれば、必ず真実が勝つという「思想の自由市場論」が、今日では通用しなくなってきたということだ。

       


      九大生体解剖事件最後の生き証人

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         昨日(121日)の東京新聞特報面。メイン記事は九州帝大の米兵生体解剖事件の最後の生き証人、東野利夫氏が自伝を自費出版したとの記事。自伝のタイトルは「戦争とは敵も味方もなく、悲惨と愚劣以外の何物でのない」。

         

         この事件は一般に、遠藤周作の小説『海と毒薬』によって知られている面が大きいと思われ、私もそれ以上のことはあまり詳しく知らなかった。しかし記事によれば、遠藤作品は「神なき日本人の罪意識」を問う作品で、軍部の命令・圧力といった事件の背景よりも、医学部の医師らの内面が中心的に描かれたため、「事件の主役は戦時下の異常な医師」との印象が定着したという。

         

         記事によれば、「実験」は、本土決戦での輸血に備えて海水を代用血液として使えるか、片肺を切除して人間はどれくらい生きられるか、といったことを「調べる」目的で、生きたままの米兵8人に生体実験を行い、死亡させたという。まさに戦争の狂気、より正確に言えば侵略戦争の狂気を示す事件である。

         

         文字通り人生の最後に言わなければならないことを書いたという東野氏は、「戦争の狂気の空気感だけは、いくら口で言っても、文字で書いても伝わらない」、「90年生きてきましたが、今が一番危ないと思う」と述べている。

         


        早乙女勝元氏の「この道」

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           昨年末、早乙女勝元氏が東京新聞夕刊の連載記事「この道」に執筆していた。その最終盤の3回(79回、80回、82回)の中の言葉を紹介したい。

           

           1225日付、第79回は「軍をすてた国」のタイトルで、コスタリカを訪問したときの話である。コーヒー農園で会った青年に、「軍隊なしで不安はないの?」と早乙女氏は問いかける。

           「ありません」

           「え? ほんとにですか」

           「だって、ないものは出せません。こちらから、どこかの国を攻撃することは絶対にありえないんだから、やられる心配もない」

           「日本では、備えあれば憂いなし、というけれどね」

           「そりゃ逆じゃないですか。備えがあれば相手方もムキになり、共に憂いが生じてエスカレートするんですよ」

           このやりとりに、早乙女氏は「小気味のいい掬い投げをくらった感じだった」と書いている。

           

           翌26日、第80回の記事では、アリアス元コスタリカ大統領に取材した話。

           「武器は使われなくても、持つだけで人間が人間でなくなっていくのですよ。軍事費の増強は最悪の選択です」とアリアス氏は語る。

           

           連載最終回、1228日付第82回の記事は次の言葉で締め括られている。

           「何事も、すべては一人から始まる。君の声を声に、そして力に……」

           


          魯迅の言葉

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             ずいぶん長い間ブログを放置していたので、久しぶりにログインしようと思ったら、ログインIDとパスワードを忘れてしまっており、ログインするのに苦労した。

             

             この間、放置していたのは、忙しかったのも一因だが、それだけが原因ではない。元来私は、ブログ(ネットの世界)とリアルの生活をクロスさせたくないと思っていたのだが、リアルの知人に読まれる可能性が出てきたために、ブログを書く気力がなくなってしまったのが最大の原因である。そこで、新たにブログを立ち上げようかとも思ったのだが(一体何度目?)、それも面倒なので、このまましばらく、続けることにした。

             

             今日は魯迅の言葉の引用から――

             

             

            「どうだい、君は何か文章でも書いて……」

             私には、彼の言う意味がわかった。彼らは『新青年』という雑誌を出している。ところが、そのころはまだ誰も賛成してくれないし、といって反対するものもないようであった。彼らは寂寞におちいったのではないか、と私は思った。だが、言ってやった。

            「かりにだね、鉄の部屋があるとするよ。窓は一つもないし、こわすことも絶対にできんのだ。なかには熟睡している人間がおおぜいいる。まもなく窒息して、みんな死んでしまうだろう。だが、昏睡状態からそのまま死へ移行するのだから、死ぬ前の悲しみは感じないんだ。いま君が、大声を出して、やや意識のはっきりしている数人のものを起こしたとすると、この不幸な少数のものに、どうせ助かりっこない臨終の苦しみを与えることになるが、それでも君は彼らに済まぬと思わぬかね」

            「しかし、数人が起きたとすれば、その鉄の部屋をこわす希望が、絶対ないとは言えんじゃないか」

             そうだ。私はむろん、私なりの確信はもっているが、しかし希望ということになれば、これは抹殺はできない。なぜなら、希望は将来にあるものであるから、絶対にないという私の照明をもってして、有りうるという彼の説を論破することは不可能だからだ。そこで結局、私は文章を書くことを承諾した。(魯迅「『吶喊』自序」)

             

             

             人生で最も苦しいことは、夢から醒めて、行くべき道がないことであります。夢を見ている人は幸福です。もし行くべき道が見つからなかったならば、その人を呼び醒まさないでやることが大切です。……将来の黄金世界を夢想する理想家は、その世界を作るためには、まず多くの人を呼び醒まして、苦痛を与えなければならない。そこで、「諸君は、黄金世界をかれらの子孫に予約した。だが、彼ら自身に与えるものがあるか」と彼はいっております。それは、あるにはあります。将来の希望がそれです。しかし、それにしては、代償があまりにも高すぎます。その希望のためには、人々の感覚をとぎすまさせ、より深く自分の苦痛を感じるようにさせなければならないし、霊魂を呼び醒まして、自分自身の腐れ爛れた屍体を直視するようにさせなければなりません。ただ、夢とたわごとだけが、このような場合に偉大さを発揮するのです。ですから、私は考えます。もし道が見つからない場合には、私たちに必要なのは夢であるが、それは将来の夢ではなくて、現在の夢なのであります。(魯迅「ノラは家出してからどうなったか」)

             

             

             魯迅は一体何が言いたいのか?

             竹内好は言う。

             「ドレイが、ドレイであることを拒否し、同時に解放の幻想を拒否すること、自分がドレイであるという自覚を抱いてドレイであること、それが「人生でいちばん苦痛な」夢からさめたときの状態である。行く道がないが行かねばならぬ、むしろ、行く道がないからこそ行かなければならぬという状態である。かれは自己であることを拒否し、同時に自己以外のものであることを拒否する。それが魯迅においてある、そして魯迅そのものを成立せしめる、絶望の意味である。絶望は、道のない道を行く抵抗においてあらわれ、抵抗は絶望の行動化としてあらわれる。それは状態としてみれば絶望であり、運動としてみれば抵抗である。」(竹内好「中国の近代と日本の近代」)

             

             

             


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